2018/02/24
2017/12/03
歴史と物語と国の理念とビジネスチャンス
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それぞれ色んなトピックを内包している本だが、「物語」という観点から少し掘り下げて考えてみたい。
「物語」というのは、2ヶ月前のエントリーで書いた、「文脈と背景」ということについて考えていたために引っかかったキーワードでもある。
"現代がどのような時代であるかを完璧に説明することなどできません。そこで、過去の歴史的な状況との類比を考えることによって、現代を理解するという作業が必要になるのです。自分が今生きている時代を歴史の中で位置付けて理解するという作業は物語を作る作業に似ている。
この作業は、現在を理解するための「大きな物語」をつくることだと言い換えることができるでしょう。「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体型のこと。「長い十九世紀」の時代であれば、「人類は無限に進歩する」とか「民主主義や科学技術の発展が人々を幸せにする」というお話が「大きな物語」です。" 「世界史の極意」p21
“とくに、私の世代以降の日本人の知識人は、「大きな物語」の批判ばかりを繰り返し、「大きな物語」をつくる作業を怠ってきてしまいました。”
“人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。” (同p22)以前読んだ、村上春樹の地下鉄サリン事件被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」の中で近いような事が書かれていて、これについて自分で書いたエントリーを自己引用してみる。
"自我を失えば、「あなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。」「しかし人は物語なしに長く生きていくことはできない」。物語は制度(システム)を超えて他者と共時体験を行うためのファクターだからです。"
"作者はここに至り、二つの問いを投げかけています。
(A)それに対して、我々はどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?(B)あなたの物語は本当にあなたの物語なのか?我々は(意識的/無意識的に)自我をシステムに差出し、代償としての物語をうけとっていないか?"
http://symemo.blogspot.jp/2011/11/blog-post.htmlこの村上春樹の主張は感覚的に理解できる。卑近な例えだが、失恋した人がJpopの歌詞聞いて「いかに共感できるか」をSNSに投稿したりするのは、自らの個人的な体験を物語化して他人とシェアすること自体にある種の癒しがあるからだろう。
オウムが勢力を伸ばしたのは日本が高度経済成長とか東京オリンピックとか一億総中流とかの社会としてのビジョンを失いひたすら停滞していた90年代前半だったが、日本は国としてはいまもまだ大きな物語を人々が見出しづらい国のような気がする。
「国のために死ねるか」は、元自衛官の人が書いた本で、いかにも右寄りっぽいタイトルとは裏腹に日本の国としてのあり方に問題提起をしていて面白かった。文末に元自衛官ならでは煩悶が吐き出されている。
“私は現在の日本に不満があるし、不甲斐なさも感じている”
“せっかく、一度しかない人生を捨ててまで守るのなら、守る対象にその価値があってほしいし、自分の納得のいく理念を追求する国家であってほしい” (「国のために死ねるか p246)たしかにオウムのあとテロを起こすようなカルト集団こそ生まれてはいないが、日本に国としての理念らしきものがあるようには見えない。そして「世界史の極意」が言うように排外主義などの“グロテスクな物語”は氾濫している。またそもそも「大きな物語」もはや機能しないという見方もある。
“哲学的に「ポストモダン」を定式化したのは、ジャン・フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年)です。(中略)たしかに、現代人は、こうした真理や規範を、もはや信じているようには見えません”
“それに代わって、リオタールがポストモダンとして提唱したのが、小さな集団の異なる「言語ゲーム」でした。他とは違う「小さな物語」を着想し、多様な方向へ分裂・差別化することが、ポストモダンの流儀となりました。”(今世界の哲学者が考えていること P36)私はリオタールの原書は読んでないが「今世界の〜」を文字通りに読むなら、村上春樹が小説を書き続けるのはある種の「小さな物語」を提示するためなのかもと思う。
以前にも書いたが、この小さな物語とか文脈の提示というのはAIとロボットがひたすら人間の仕事を代替していった後に残る領域の一つかもしれない。
たとえばエコ。エコフレンドリー製品は、購入者が直接的な便益を感じることは普通あまりない。オゾン層破壊は一消費者がエアコンをフロンガス不使用のものに替えたところで目に見える解決にはならないが、地球環境をより持続可能なものにする、という物語に参加することができる。そしてその物語を作っているのはアル・ゴアのような活動家だったり、エコ雑誌の編集者だったり、企業のソーシャルマーケティング担当者だったりするわけで、これはAIに代替してしまうと味気なさすぎるので人間がすることに価値がある。
また、手仕事に再度価値が戻ってくる可能性もある気がする。ハンドメイド製品のマーケットプレイスのひとつ、エッツィは13年度時点での総取引高が14億ドルに達し100万人もの売り手がいるという(「マッキンゼーが予測する未来」)。自分も最近同業のMinneで木製ベンチを買ったのだが、量産品にはない良い意味でのラフな味と、作り手の顔が見えることもあってとても気に入っている。
以前にも似たようなことを書いたが、大量生産の味気ない消費財に飽きた一部の消費者が手仕事のもつ小さな小さな物語に先祖返り的に価値を感じるようになる時代が来つつあるのではないか。エッツィなどの成功の最大の要因は潜在的な無数のスモールビジネスを掘り起こしたことにあるのだろうが、Minneの作り手の作家性を打ち出したTVCM等を見るとこの手仕事の価値の再興も寄与しているように思える。
2017/11/26
この世界の片隅に 感想
2017/07/04
リアムが日本にやってくる
2017/05/10
阪神と四球と甲子園
我が阪神が強いです。
ネット某所では阪神打線の選ぶ四球の多さからお散歩打線とか四球乞食とか呼ばれてたりして、金本の現役時代の出塁率の高さのためか金本阪神の象徴のようにも語られていますが、現在の高IsoD路線は今に始まったことではなく前和田政権から始まっているものです。
和田阪神の最終年、途中まで得失点マイナスで首位とかいうわけわからない状態でしたけど、同時に打線のぱっと見の貧弱さも話題でした。規定到達した最高打率の打者が福留の.281。三割バッターなし、本塁打最高も福留の20本。
ただ以外と見た目よりはアジのある打線で、鳥谷→上本→福留→ゴメスと四人続けて選球眼良くてかつ全然バット振らないバッターが出てくる。ヤフーの速報見てると「一度もスイングすることなくフォアボール」とか、そんなんばっかで。
これノーコンピッチャーは嫌だろうなと思ったものです(まあ得点は最下でしたけど。ストライク投げれる普通のピッチャー相手だと点が取れない)
で、これが金本体制になると上記四人からゴメスがいなくなる代わりに北條、原口、更に今年から糸井が追加されててもはや球団側の意図を感じざるを得ない。ついでに見逃し三振には甘く出塁率を評価する査定基準になってるのでは?
ただこの路線、甲子園の広さを考えると合理的なんですよね。この30年で阪神で40本打ったの金本だけだし。いつ出るか分からない長打に過度の期待を持たず、四球でランナーためて単打で還す。あるいは押し出し。今年既に押し出し何回見ただろう?
ついでに阪神が90年代の変則ピッチャー大量路線から最近の剛球ゴリ押しタイプに変わってるのも納得がいきます。力勝負で打たれても外野フライどまりが多い(多分)。
一方で二軍に魔改造で有名な久保コーチがいて高身長速球派ならそこそこコントロールどうにかしてくれるので、最低限ストライクは投げれるようになる。今年のドリスのk/bbがここまで3超えてて去年がちょうど2だったりとか。
ちょっと前まで阪神なんてノリと勢い重視の大阪人を適当な補強と監督交代で目くらましするばっかりのしょーもない球団、日ハムとかソフトバンクとか合理的(風)な運営するチームや広島みたいな腰を据えて若手育成するチームと全然違うと思ってましたけど、今のチームの特徴が長期的なビジョンに基づくものなのだとしたら考えを改めなければなりませぬ。
2017/02/28
採用交渉についてのメモ
最近採用活動を通して実感しているのは、このようななるべくWin-Winの形を目指す姿勢というのは単に交渉をまとめやすくするというだけでなく、交渉後の双方の協業から生まれる成果を大きくするということです。
採用の場合、条件交渉でまとまったあと、候補者が入社しその会社で働くわけですが、交渉結果にわだかまりがあるまま入社する、つまり候補者のBATNA/撤退ラインのギリギリで入社した場合のちのちのエンゲージメント低下につながりやすい。一方的に買い叩くような採用は結局上手くいかない、ということです。
口で言うのは簡単、実際にそのような交渉をまとめるのは難しいですが心がけたいところです。
