2018/07/29

中国出張の雑感

超個人的な、中国・香港出張で感じたことのまとめです。

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今の会社に入って5回目の香港来訪、深センなり香港なりへの出張が何だかんだ毎年入るためすっかり恒例行事と化している。今年に限っては秋にも予定されている。

同僚とともに中国本土から香港に戻ると、必ず口々に香港で得られる開放感の話題になる。


これは決して深センがより途上国っぽいとか香港が近代的ということとかではない。むしろホテルのある深セン中心部は香港よりも真新しく清潔で道も広く近代的だったりする。

中国本土にない開放感というのは、たとえば欧米人を相手に話すのより一段上の繊細さをもって話題を選ぶ必要があったり(たとえばドイツ人・アメリカ人相手なら酒を飲んでしまえば多少政治寄りのトピックも話してOKな雰囲気があるが、中国人相手だとまだちょっと正直怖い)、国境に近くなると妙なところにCCTVがあったり、GoogleやFacebookなど中国で使えないWebサービスの話題になると一瞬微妙な空気が流れたりとか、要するにそういう「自由な国だと不要な気遣いとかストレスがここだと発生する」ということだ。表現を変えると、1984のビッグブラザー的な、”コントロールされること”へのストレスだと思う。(もちろん単に私が慣れていないだけ、気にしすぎなだけ、あるいは半端な知識で彼の国に対して不要なバイアスを持っているだけという可能性はあるが)

最近(何か忘れたが)何かの記事で、中国初のITビジネスがGAFAクラスまでの成功を収めることはないだろう、なぜならBATのような中国IT/Webジャイアントには背後に国家による(時に理不尽で不気味な)コントロールの影を感じさせ、それが一部のユーザーを遠ざけるからだとという言説を読んだ。私もそうだと思う。

結局、国家による過度なコントロールは(一定の?)効率性と引き換えに、ソフトパワーを損なうのだ。裏をかえせば、明治以降日本が(一時期を除いて培ってきた)自由な価値観に基づくソフトパワーを活かす道こそ、日本の採るべき戦略なのかなと最近感じることが多い。

特に、毎回香港に行って思うのは、日本のソフトパワーの強さだ。ファッション、食、化粧品、生活雑貨といった分野での進出ぶりは目をみはるものがある。ローテクで、消費者が価値観で商品選択をする分野だ。たとえばこないだは頭髪ボリュームアップをうたう男性向けシャンプーの広告「男立ち」というキャッチフレーズがそのまま使われていた。「ち」の意味がわからなくても、それが日本語で、日本メーカーの製品であることにマーケティング上の意味があるということ。

ニュアンスは多少違うが、今日本の一部の層が北欧なんかに感じているような、「感度の高いライフスタイルへの憧れ」みたいな感じを、香港の一部の消費者が日本に対して持ってくれている印象がある。

では、仮に今の日本が強いソフトパワーを持っているとして、それを中国が近い将来持てるかといえば、まずないだろう。アジアだと韓国、台湾ならありえると思うが、中国は構造的に難しい。

なぜなら、この手の、「国の持つソフトパワー」と表現の自由には密接な関係があるからだ。表現の自由、芸術と言い換えてもいいが、アート、音楽、文学、ファッションといった領域は、進歩のために常に現状への批判精神が必要となる。国の体制批判というのはその最もポピュラーな形だ。

「何かを批判するとき、その批判をした人に対して身体的危害を加えられない」というのは表現の自由を担保する上での超基本的な前提条件と言える。(その上で何を表現するのが倫理的なのかを議論する必要はあるとしても)

この、表現とか芸術の前衛的な一番上流がダメになると、結局ビジネスにつながるような下流もダメになる。ファッションがわかりやすいが、最も前衛的なコレクションブランドは一般人には理解が難しいが、彼らはもう少しわかり安いデザイナーズブランド、少しビジネスになるレイヤーに影響をおよぼし、そのレイヤーが次の最も金になる大衆向けブランドのレイヤーに影響を及ぼす。今の中国からはコムデギャルソンは出てこないだろう。

最近、中国で過去最大の予算をかけた映画があまりに低調な動員のため即打ち切りになるというニュースがあった。直接的な理由かはわからないが、当局から内容についてのリクエストがあったという。この話も同じ構造に見える。

 「だから日本は素晴らしい。世界の人たちが憧れる日本」みたいなことを主張したいわけではなく、IT系ハイテク分野で負けつつあるようにおける今の状況で、日本が何を強みとできうるのかを考えないといけないな、と思って書き連ねた。

コンフリクトマネジメントのコツ?

採用をしていると年上・役職も上の人たちと割合フラットな立場でMTGをしたりチームを組んで面接をする機会がままあるのだが、当然採用についての意見が食い違うことは多いです。

で、色々観察していると、その意見の食い違い(コンフリクト)をうまくマネージしているリーダーと、そうではないリーダーがいることに気づく。よく言われるように、やはりコンフリクトマネジメントはソフトスキルなのです。

ではそれが上手な人と下手な人、いいかえれば意見対立をより少ないストレスで通過していける人の違いはどこにあるのか、最近あるリーダーと接していて感じることがあったのでまとめてみました。

①リスペクトの有無
相手の意見を尊重していることを十分示せていない。少なくとも一度反論せずに受容(プラス、できれば共感)する、その上で自分の意見を述べる。
ソフトスキルの一種ではあるのですが、一方でここには前提として価値観の多様性に対する根本的な理解があるかどうかが鍵に思え、実はきちんと習得するためには時間がかかるように思います。

②意思決定プロセスと役割期待へのギャップの有無
意思決定プロセスによって、リーダーがメンバーに求める役割も多様化しますが、このプロセスと期待値について誤解があると双方にストレスが生じる。
1 トップダウンで決定するし、メンバーからのインプットも求めない
2 最終的にはトップダウンで決定するが、メンバーからのインプットを求め参考にしたうえで決める
3 相手やグループに決定を委ねるが、リーダーも意見を述べる (この時リーダーが自分の影響力を理解・考慮できていないとこれもストレスのもとになる)
4 相手やグループに決定を委ねる。リーダーはファシリテーションなりオブザーブなりに徹する

特に、私の会社のようにフラットっぽい組織だと、往々にして
(a)2なのか3なのかが整理されておらず共有もされていないことで誤解が生じている 
(b)リーダーは3だとうたっているが、実際は限りなく2に近い状態になっている
…などなどの状態が発生しがちで、メンバーとしてはスッキリしない感情を抱えたたまま自分の意見がひっくり返されるという経験をしてしまう。

以前リーダーシップのコミュニケーションに関する研修で、「プロセスの話をしなさい」と口酸っぱく言われたものだが、意思決定プロセスについてもそこについての合意があれば、意外とmemberとしては納得できる・あきらめがつく場面も多いのではないかと思います。

私自身、昔NPOに所属していた時、あるリーダーが「今から○○について皆から意見をもらいます。ただ色々な意見を聞いた上で最終的な意思決定は自分でします」と明言されてミーティングが始まったことがあって、その時の結論にはとてもすっきりした気持ちで受け入れることができました。

今にして思えば、これぞ「プロセスについて話す」という良い事例だったんでしょう。

2018/05/13

自分がそれでも民主主義を信じたいと思える理由

「本当に民主主義は独裁に対して優位なのか(特に国家というある種の事業体の運営において)」というのが近年ずっとモヤモヤしていた問いかけの一つです。

私の働く会社は営利企業にも関わらずある種の民主主義に近い仕組みを取り入れている一風変わった会社なのですが、ここ数年そのネガティブな面が現れてきていることが社内で問題視されてもいます。変化への対応の遅れ、時に部分に対して悪影響をもたらす全体最適優先の意思決定がしづらい、管理コストの増加、などなどがそれです。

で、こうした問題は今(民主主義国家である)日本が直面している事象でもあります。国家財政が破綻しかかっていようが、少子高齢化が後戻りできないレベルで進行しようが、先進国でも下位の生産性が延々続いていようが、機動的に有効な施策を打っていくことができない。これは民主主義のネガティブな側面、つまり数的多数が反対することはできないことにも起因するのではないかと(そうした状況で本来必要な施策を支持する層が数的多数になるようコンセンサス形成する能力が政治エリートの役割なのかもしれないですが)。

隣の中国がトップダウン・中央集権の権力構造のもとスピーディーに色々な施策を展開しているように見えますが、よく考えるとトップの決定が(多数派の意見より)優先される仕組みというのは基本的にどんな営利企業でも共有しています。両者の違いとして、企業の場合経営と所有が分離されることでトップが監督されうる状況にこそあるものの、所有者である株主は一人一票ではなく所有株数によっては特定の誰かの意向が強く反映されたりするわけなので、この監督の仕組みは必ずしも民主的とは言えない。

つまり、世の経済活動の主役である株式会社達が独裁を取り入れている、あるいは少なくとも否定していない(否定すればそれは株式会社ではなくなる)わけで、それならば国家という事業体だってひょっとして独裁の方が上手くという言説も成り立つのでは?というのが冒頭の疑問なわけです。

ただ一方でやはり先人達による民主主義の歴史がある日本に生まれた自分としては民主主義の優位性を信じたい気持ちもあり、民主主義の事業運営におけるアドバンテージは何なのだろうと考えていました。

で、最近そのヒントになったのが、ジャレド・ダイヤモンド「鉄・病原菌・銃」という分厚い歴史に関する本、もともとCivilization 5をより楽しくプレイするというだけの理由で買った本だったのですが。

同書を読む中で非常によく理解できたのが、繁殖を通じて自分たちの子供に多様性を与えることが、種としての生存戦略になっているということです。植物には自家受粉植物と他家受粉植物があり、前者は多様性を生み出す程度がやや控えめな代わりに突然変異で生まれた性質を次代に引き継ぎやすい一方、後者は幅広い交配で多様性に富んだ個体を産みだすものの、その多様性が世代交代によって失われやすい。
「野生植物に多く見られる雌雄同体や雌雄異体の他家受粉植物は、農耕をはじめたばかりの原始人たちにとって悩みの種であった。多収穫の突然変異種を見つけても、すぐに他家受粉してしまい、有用な特性が一代かぎりで終わってしまったからである」上巻p250
肥沃な三日月地帯の原始人は、植物の中でも特に時折特全変異を生み出しつつもその性質を子孫に伝達しやすい「自植性植物」にめぐまれていたことで、品種改良による食物生産において圧倒的に有利なあったわけですが、植物側の立場にたつと、どの程度の多様性をもたらすべきか(=どの程度突然変異が世代交代で失われるのを許容するか)は、各植物による環境への適応における最重要戦略だと言えます。多様性と特性の遺伝度合いはトレードオフの関係にあり、それをどうバランスさせるかによって環境の変化に適切に対応できるかどうかが決まる。この関係性は、政治体制における多様性(Diversity)と統制(Control)のトレードオフに似ているのではないかと思うのです。

人類はこうした植物の中で、「多様性控え目&特性遺伝度高め」な植物を見つけ、それらに一定の方向性、たとえば収穫量が多いとか、実が大きい、甘みが強い、災害に強いなどといった性質を意図的に強めることで食料生産を可能にしました。つまり、非常に強い統制でもって進化の方向性を決めてしまう試みです。

当然、この過程で収穫量が少なかったり実が小さかったりする個体(=突然変異)は排除されていくわけで、これは種として変化への対応力を弱めます。上述したように、多様性は(程度問題こそあれど)種が環境に適応するのにおいて必須要素だからです。

経営の世界では、
「全体を救うイノベーションは常に多様性から生まれる」
という言葉があります。これは経済でも企業でも種でもあるいは国家でも同じなのではないでしょうか。

その意味で、独裁というのは人類による植物の品種改良と同じように、統制が強すぎるがために長期的な変化への対応力や回復力(Resilience)を弱める仕組みなのではないかと。たとえば中国が長期にわたって実施した一人っ子政策、あれについてもその政策的な失敗はほとんど明らかですが、独裁政権が協力に推し進めたものであるがために自己否定もすることができず簡単にその旗を降ろすことができずダラダラ続いてしまったものに見えます。これが民主国家であれば「前政権の政策は失敗だった」といってアッサリ撤回できてしまう。トランプがオバマ政権と逆の政策を続けて発表できてしまうのも、そういうことだと思うのです。

というわけで、そもそも民主主義を支持したいという気持ちもあってこういう論を進めてしまったわけですが、正しいか間違っているかは今後の世界の独裁国家の成り行きを見守りつつ考えたいと思います。





2018/04/05

大分歯石がたまってきてしまったのが素人目にも明らかだったため、気合いを入れて少しお高い自由診療の歯科に行ってきました。その時た色々貴重な話を聞けたのでメモ。

  • 歯磨き粉の研磨剤は悪い物ではなく、むしろ汚れを落とすには必要。ただし粒の細かいものを選ぶ必要がある。安価なものだとシュミテクトがよい。シュミテクトでギリギリの大きさ。その歯科での推奨品はデント ブリリアントモア。
  • リカルデントやポスカムも効果あり。キリトールガムも良いがあっちは作用機序が違う。
  • 私の場合、歯ぎしりの圧がかかることで歯茎が痩せてしまっている。結構進行しているので大きく改善することはできない。ただしクリーニングと、マウスピースによる圧の緩和、そもそもなるべく歯ぎしりしないようなストレスの緩和などで少し戻ることはある。その気になれは手術で多少の改善は可能だが、基本的にはこれ以上進行させないことが大事。そのためにもマウスピースは必須。見たところ私のケースもマウスピースは奏功していて、まだ歯がすり減りきってはいない。
  • 硬い歯ブラシも歯茎痩せの一因。歯ブラシは柔らかく細いモノをつかうべき。
  • ソニケアはやはりオススメ。ただし私のようなタイプの場合、ブラシ部分をセンシティブタイプに変えた方がよいかも。


2018/02/24

私の会社の初の新卒インターンシップが終わった。

当初は大人しい子が多いイメージで不安を感じていたが、優秀な子、ポテンシャルの高い子が多く、帰る頃には評価が一変していた。

ウチがそういう会社というのもあるが、参加者に海外やグローバルな仕事に関心のある子が多く、皆つたない英語で話すことに躊躇がない。

本来ならこういう人材にガツンと刺激を与えられる時間を提供したいところで、そのための最善は尽くしたつもりだが、いかんせん採用のためのアセスメントとプロモーションが第一義なのでどうしても限界はあったりする。

そう、優秀な人材にはちゃんと刺激を与えて育てていかないといけない。

年一で深セン出張に行っているが、ああいう放っておいても競争、経済成長、変化と革新が日夜起こる場所ではかれらは無意識にでも刺激を得て伸びてゆく。

自分はもともと新卒でベンチャー的な会社に入った人間で、競争、成長、変化が多い環境の功罪はそれなりに理解できているつもりだ。

そういった環境は往々にして下品、未成熟、粗野で健康に悪かったりするが、能力を高め貪欲さを育む。成長が鈍化し、新しい商売がなかなか生まれない国では必要なものだ。

ここでいつも腹が立つのは日本のここが凄いだなんだと自己満足を煽るたくさんのコンテンツ。きっと実際に凄いところ、世界に認められている技術や文化的コンテンツもあるだろうとは思う。だがそれで得られる安心は愛国心は育むかもしれないが若者をスポイルしてゆく。

危機感や劣等感に駆り立てれて伸びる能力はあるはずで、それは安心や誇りなんかと上手くバランスされていないといけない。が、今の日本で前者を
麻痺させようさせようとするコンテンツが氾濫しているのはどういうことなのか。


このことには憤ってばかりいる。

2017/12/03

歴史と物語と国の理念とビジネスチャンス

たまたま続けて読んだ3冊「いま世界の哲学者が考えていること」(岡本裕一朗)「世界史の極意」(佐藤優)「国のために死ねるか」(伊藤祐靖)に、続けて読むことで気付かされた点があったのでそのメモです。

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それぞれ色んなトピックを内包している本だが、「物語」という観点から少し掘り下げて考えてみたい。

「物語」というのは、2ヶ月前のエントリーで書いた、「文脈と背景」ということについて考えていたために引っかかったキーワードでもある。
 "現代がどのような時代であるかを完璧に説明することなどできません。そこで、過去の歴史的な状況との類比を考えることによって、現代を理解するという作業が必要になるのです。
 この作業は、現在を理解するための「大きな物語」をつくることだと言い換えることができるでしょう。「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体型のこと。「長い十九世紀」の時代であれば、「人類は無限に進歩する」とか「民主主義や科学技術の発展が人々を幸せにする」というお話が「大きな物語」です。" 「世界史の極意」p21 
自分が今生きている時代を歴史の中で位置付けて理解するという作業は物語を作る作業に似ている。
“とくに、私の世代以降の日本人の知識人は、「大きな物語」の批判ばかりを繰り返し、「大きな物語」をつくる作業を怠ってきてしまいました。”
“人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。” (同p22)
以前読んだ、村上春樹の地下鉄サリン事件被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」の中で近いような事が書かれていて、これについて自分で書いたエントリーを自己引用してみる。
"自我を失えば、「あなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。」「しかし人は物語なしに長く生きていくことはできない」。物語は制度(システム)を超えて他者と共時体験を行うためのファクターだからです。"
 "作者はここに至り、二つの問いを投げかけています。
(A)それに対して、我々はどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?(B)あなたの物語は本当にあなたの物語なのか?我々は(意識的/無意識的に)自我をシステムに差出し、代償としての物語をうけとっていないか?" 
http://symemo.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
この村上春樹の主張は感覚的に理解できる。卑近な例えだが、失恋した人がJpopの歌詞聞いて「いかに共感できるか」をSNSに投稿したりするのは、自らの個人的な体験を物語化して他人とシェアすること自体にある種の癒しがあるからだろう。

オウムが勢力を伸ばしたのは日本が高度経済成長とか東京オリンピックとか一億総中流とかの社会としてのビジョンを失いひたすら停滞していた90年代前半だったが、日本は国としてはいまもまだ大きな物語を人々が見出しづらい国のような気がする。

「国のために死ねるか」は、元自衛官の人が書いた本で、いかにも右寄りっぽいタイトルとは裏腹に日本の国としてのあり方に問題提起をしていて面白かった。文末に元自衛官ならでは煩悶が吐き出されている。
“私は現在の日本に不満があるし、不甲斐なさも感じている”
“せっかく、一度しかない人生を捨ててまで守るのなら、守る対象にその価値があってほしいし、自分の納得のいく理念を追求する国家であってほしい” (「国のために死ねるか p246)
たしかにオウムのあとテロを起こすようなカルト集団こそ生まれてはいないが、日本に国としての理念らしきものがあるようには見えない。そして「世界史の極意」が言うように排外主義などの“グロテスクな物語”は氾濫している。またそもそも「大きな物語」もはや機能しないという見方もある。
“哲学的に「ポストモダン」を定式化したのは、ジャン・フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年)です。(中略)たしかに、現代人は、こうした真理や規範を、もはや信じているようには見えません”
“それに代わって、リオタールがポストモダンとして提唱したのが、小さな集団の異なる「言語ゲーム」でした。他とは違う「小さな物語」を着想し、多様な方向へ分裂・差別化することが、ポストモダンの流儀となりました。”(今世界の哲学者が考えていること P36)
私はリオタールの原書は読んでないが「今世界の〜」を文字通りに読むなら、村上春樹が小説を書き続けるのはある種の「小さな物語」を提示するためなのかもと思う。

以前にも書いたが、この小さな物語とか文脈の提示というのはAIとロボットがひたすら人間の仕事を代替していった後に残る領域の一つかもしれない。

たとえばエコ。エコフレンドリー製品は、購入者が直接的な便益を感じることは普通あまりない。オゾン層破壊は一消費者がエアコンをフロンガス不使用のものに替えたところで目に見える解決にはならないが、地球環境をより持続可能なものにする、という物語に参加することができる。そしてその物語を作っているのはアル・ゴアのような活動家だったり、エコ雑誌の編集者だったり、企業のソーシャルマーケティング担当者だったりするわけで、これはAIに代替してしまうと味気なさすぎるので人間がすることに価値がある。

また、手仕事に再度価値が戻ってくる可能性もある気がする。ハンドメイド製品のマーケットプレイスのひとつ、エッツィは13年度時点での総取引高が14億ドルに達し100万人もの売り手がいるという(「マッキンゼーが予測する未来」)。自分も最近同業のMinneで木製ベンチを買ったのだが、量産品にはない良い意味でのラフな味と、作り手の顔が見えることもあってとても気に入っている。

以前にも似たようなことを書いたが、大量生産の味気ない消費財に飽きた一部の消費者が手仕事のもつ小さな小さな物語に先祖返り的に価値を感じるようになる時代が来つつあるのではないか。エッツィなどの成功の最大の要因は潜在的な無数のスモールビジネスを掘り起こしたことにあるのだろうが、Minneの作り手の作家性を打ち出したTVCM等を見るとこの手仕事の価値の再興も寄与しているように思える。

2017/11/26

この世界の片隅に 感想

夏休みに遅ればせながら映画「この世界の片隅に」を見た。とても感動して、原作漫画も買って読んだのでその感想。

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■繰り返して読む度に、複雑な感情が湧き上がる作品。玉音放送にあるような耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶような時代の続きに今の時代はあるわけで(たとえそういうタフな時期が朝鮮戦争特需なり冷戦なりで短縮されたにしても)、それに対する感謝の感情が半分。この国をもっと良くできるようにしなきゃと思えてくる。

■もう半分は、当時なぜ戦争なんて始めてしまったのか、そしてなぜ今もなお敗戦国としての誹りを免れないのか、それは当時の日本人、自らの先祖達のせいなんじゃないかという気持ち。戦前少なくとも一度は民主主義を実現していたわけで、当時の選択の過ちは誰か個人の過ちではなく日本人全体が間違いを重ねていった結果というのがまた救いがない。


■主人公が「暴力で従えとった」「この国の正体」を理解した瞬間に崩れおちたのは、いつの間にか(望むと望まざるとに関わらず)自らも戦争に対する参加意識が芽生えてしまっていたがため。この作品が面白いのは、その瞬間まで主人公が戦争に対する嫌悪感をあらわにするような描写がないこと。実際、前向きな主人公はその前向きさゆえに戦争のある日常を受容して日々を暮らしていく。ここには明るく前向きな普通の人間が、特に積極的な支持を表明したとかではなくても気がつけば戦争という大きな流れになんとなく飲み込まれてしまう恐ろしさがある。