超個人的な、中国・香港出張で感じたことのまとめです。
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今の会社に入って5回目の香港来訪、深センなり香港なりへの出張が何だかんだ毎年入るためすっかり恒例行事と化している。今年に限っては秋にも予定されている。
同僚とともに中国本土から香港に戻ると、必ず口々に香港で得られる開放感の話題になる。
これは決して深センがより途上国っぽいとか香港が近代的ということとかではない。むしろホテルのある深セン中心部は香港よりも真新しく清潔で道も広く近代的だったりする。
中国本土にない開放感というのは、たとえば欧米人を相手に話すのより一段上の繊細さをもって話題を選ぶ必要があったり(たとえばドイツ人・アメリカ人相手なら酒を飲んでしまえば多少政治寄りのトピックも話してOKな雰囲気があるが、中国人相手だとまだちょっと正直怖い)、国境に近くなると妙なところにCCTVがあったり、GoogleやFacebookなど中国で使えないWebサービスの話題になると一瞬微妙な空気が流れたりとか、要するにそういう「自由な国だと不要な気遣いとかストレスがここだと発生する」ということだ。表現を変えると、1984のビッグブラザー的な、”コントロールされること”へのストレスだと思う。(もちろん単に私が慣れていないだけ、気にしすぎなだけ、あるいは半端な知識で彼の国に対して不要なバイアスを持っているだけという可能性はあるが)
最近(何か忘れたが)何かの記事で、中国初のITビジネスがGAFAクラスまでの成功を収めることはないだろう、なぜならBATのような中国IT/Webジャイアントには背後に国家による(時に理不尽で不気味な)コントロールの影を感じさせ、それが一部のユーザーを遠ざけるからだとという言説を読んだ。私もそうだと思う。
結局、国家による過度なコントロールは(一定の?)効率性と引き換えに、ソフトパワーを損なうのだ。裏をかえせば、明治以降日本が(一時期を除いて培ってきた)自由な価値観に基づくソフトパワーを活かす道こそ、日本の採るべき戦略なのかなと最近感じることが多い。
特に、毎回香港に行って思うのは、日本のソフトパワーの強さだ。ファッション、食、化粧品、生活雑貨といった分野での進出ぶりは目をみはるものがある。ローテクで、消費者が価値観で商品選択をする分野だ。たとえばこないだは頭髪ボリュームアップをうたう男性向けシャンプーの広告「男立ち」というキャッチフレーズがそのまま使われていた。「ち」の意味がわからなくても、それが日本語で、日本メーカーの製品であることにマーケティング上の意味があるということ。
ニュアンスは多少違うが、今日本の一部の層が北欧なんかに感じているような、「感度の高いライフスタイルへの憧れ」みたいな感じを、香港の一部の消費者が日本に対して持ってくれている印象がある。
では、仮に今の日本が強いソフトパワーを持っているとして、それを中国が近い将来持てるかといえば、まずないだろう。アジアだと韓国、台湾ならありえると思うが、中国は構造的に難しい。
なぜなら、この手の、「国の持つソフトパワー」と表現の自由には密接な関係があるからだ。表現の自由、芸術と言い換えてもいいが、アート、音楽、文学、ファッションといった領域は、進歩のために常に現状への批判精神が必要となる。国の体制批判というのはその最もポピュラーな形だ。
「何かを批判するとき、その批判をした人に対して身体的危害を加えられない」というのは表現の自由を担保する上での超基本的な前提条件と言える。(その上で何を表現するのが倫理的なのかを議論する必要はあるとしても)
この、表現とか芸術の前衛的な一番上流がダメになると、結局ビジネスにつながるような下流もダメになる。ファッションがわかりやすいが、最も前衛的なコレクションブランドは一般人には理解が難しいが、彼らはもう少しわかり安いデザイナーズブランド、少しビジネスになるレイヤーに影響をおよぼし、そのレイヤーが次の最も金になる大衆向けブランドのレイヤーに影響を及ぼす。今の中国からはコムデギャルソンは出てこないだろう。
最近、中国で過去最大の予算をかけた映画があまりに低調な動員のため即打ち切りになるというニュースがあった。直接的な理由かはわからないが、当局から内容についてのリクエストがあったという。この話も同じ構造に見える。
「だから日本は素晴らしい。世界の人たちが憧れる日本」みたいなことを主張したいわけではなく、IT系ハイテク分野で負けつつあるようにおける今の状況で、日本が何を強みとできうるのかを考えないといけないな、と思って書き連ねた。