2018/05/13

自分がそれでも民主主義を信じたいと思える理由

「本当に民主主義は独裁に対して優位なのか(特に国家というある種の事業体の運営において)」というのが近年ずっとモヤモヤしていた問いかけの一つです。

私の働く会社は営利企業にも関わらずある種の民主主義に近い仕組みを取り入れている一風変わった会社なのですが、ここ数年そのネガティブな面が現れてきていることが社内で問題視されてもいます。変化への対応の遅れ、時に部分に対して悪影響をもたらす全体最適優先の意思決定がしづらい、管理コストの増加、などなどがそれです。

で、こうした問題は今(民主主義国家である)日本が直面している事象でもあります。国家財政が破綻しかかっていようが、少子高齢化が後戻りできないレベルで進行しようが、先進国でも下位の生産性が延々続いていようが、機動的に有効な施策を打っていくことができない。これは民主主義のネガティブな側面、つまり数的多数が反対することはできないことにも起因するのではないかと(そうした状況で本来必要な施策を支持する層が数的多数になるようコンセンサス形成する能力が政治エリートの役割なのかもしれないですが)。

隣の中国がトップダウン・中央集権の権力構造のもとスピーディーに色々な施策を展開しているように見えますが、よく考えるとトップの決定が(多数派の意見より)優先される仕組みというのは基本的にどんな営利企業でも共有しています。両者の違いとして、企業の場合経営と所有が分離されることでトップが監督されうる状況にこそあるものの、所有者である株主は一人一票ではなく所有株数によっては特定の誰かの意向が強く反映されたりするわけなので、この監督の仕組みは必ずしも民主的とは言えない。

つまり、世の経済活動の主役である株式会社達が独裁を取り入れている、あるいは少なくとも否定していない(否定すればそれは株式会社ではなくなる)わけで、それならば国家という事業体だってひょっとして独裁の方が上手くという言説も成り立つのでは?というのが冒頭の疑問なわけです。

ただ一方でやはり先人達による民主主義の歴史がある日本に生まれた自分としては民主主義の優位性を信じたい気持ちもあり、民主主義の事業運営におけるアドバンテージは何なのだろうと考えていました。

で、最近そのヒントになったのが、ジャレド・ダイヤモンド「鉄・病原菌・銃」という分厚い歴史に関する本、もともとCivilization 5をより楽しくプレイするというだけの理由で買った本だったのですが。

同書を読む中で非常によく理解できたのが、繁殖を通じて自分たちの子供に多様性を与えることが、種としての生存戦略になっているということです。植物には自家受粉植物と他家受粉植物があり、前者は多様性を生み出す程度がやや控えめな代わりに突然変異で生まれた性質を次代に引き継ぎやすい一方、後者は幅広い交配で多様性に富んだ個体を産みだすものの、その多様性が世代交代によって失われやすい。
「野生植物に多く見られる雌雄同体や雌雄異体の他家受粉植物は、農耕をはじめたばかりの原始人たちにとって悩みの種であった。多収穫の突然変異種を見つけても、すぐに他家受粉してしまい、有用な特性が一代かぎりで終わってしまったからである」上巻p250
肥沃な三日月地帯の原始人は、植物の中でも特に時折特全変異を生み出しつつもその性質を子孫に伝達しやすい「自植性植物」にめぐまれていたことで、品種改良による食物生産において圧倒的に有利なあったわけですが、植物側の立場にたつと、どの程度の多様性をもたらすべきか(=どの程度突然変異が世代交代で失われるのを許容するか)は、各植物による環境への適応における最重要戦略だと言えます。多様性と特性の遺伝度合いはトレードオフの関係にあり、それをどうバランスさせるかによって環境の変化に適切に対応できるかどうかが決まる。この関係性は、政治体制における多様性(Diversity)と統制(Control)のトレードオフに似ているのではないかと思うのです。

人類はこうした植物の中で、「多様性控え目&特性遺伝度高め」な植物を見つけ、それらに一定の方向性、たとえば収穫量が多いとか、実が大きい、甘みが強い、災害に強いなどといった性質を意図的に強めることで食料生産を可能にしました。つまり、非常に強い統制でもって進化の方向性を決めてしまう試みです。

当然、この過程で収穫量が少なかったり実が小さかったりする個体(=突然変異)は排除されていくわけで、これは種として変化への対応力を弱めます。上述したように、多様性は(程度問題こそあれど)種が環境に適応するのにおいて必須要素だからです。

経営の世界では、
「全体を救うイノベーションは常に多様性から生まれる」
という言葉があります。これは経済でも企業でも種でもあるいは国家でも同じなのではないでしょうか。

その意味で、独裁というのは人類による植物の品種改良と同じように、統制が強すぎるがために長期的な変化への対応力や回復力(Resilience)を弱める仕組みなのではないかと。たとえば中国が長期にわたって実施した一人っ子政策、あれについてもその政策的な失敗はほとんど明らかですが、独裁政権が協力に推し進めたものであるがために自己否定もすることができず簡単にその旗を降ろすことができずダラダラ続いてしまったものに見えます。これが民主国家であれば「前政権の政策は失敗だった」といってアッサリ撤回できてしまう。トランプがオバマ政権と逆の政策を続けて発表できてしまうのも、そういうことだと思うのです。

というわけで、そもそも民主主義を支持したいという気持ちもあってこういう論を進めてしまったわけですが、正しいか間違っているかは今後の世界の独裁国家の成り行きを見守りつつ考えたいと思います。