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それぞれ色んなトピックを内包している本だが、「物語」という観点から少し掘り下げて考えてみたい。
「物語」というのは、2ヶ月前のエントリーで書いた、「文脈と背景」ということについて考えていたために引っかかったキーワードでもある。
"現代がどのような時代であるかを完璧に説明することなどできません。そこで、過去の歴史的な状況との類比を考えることによって、現代を理解するという作業が必要になるのです。自分が今生きている時代を歴史の中で位置付けて理解するという作業は物語を作る作業に似ている。
この作業は、現在を理解するための「大きな物語」をつくることだと言い換えることができるでしょう。「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体型のこと。「長い十九世紀」の時代であれば、「人類は無限に進歩する」とか「民主主義や科学技術の発展が人々を幸せにする」というお話が「大きな物語」です。" 「世界史の極意」p21
“とくに、私の世代以降の日本人の知識人は、「大きな物語」の批判ばかりを繰り返し、「大きな物語」をつくる作業を怠ってきてしまいました。”
“人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。” (同p22)以前読んだ、村上春樹の地下鉄サリン事件被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」の中で近いような事が書かれていて、これについて自分で書いたエントリーを自己引用してみる。
"自我を失えば、「あなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。」「しかし人は物語なしに長く生きていくことはできない」。物語は制度(システム)を超えて他者と共時体験を行うためのファクターだからです。"
"作者はここに至り、二つの問いを投げかけています。
(A)それに対して、我々はどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?(B)あなたの物語は本当にあなたの物語なのか?我々は(意識的/無意識的に)自我をシステムに差出し、代償としての物語をうけとっていないか?"
http://symemo.blogspot.jp/2011/11/blog-post.htmlこの村上春樹の主張は感覚的に理解できる。卑近な例えだが、失恋した人がJpopの歌詞聞いて「いかに共感できるか」をSNSに投稿したりするのは、自らの個人的な体験を物語化して他人とシェアすること自体にある種の癒しがあるからだろう。
オウムが勢力を伸ばしたのは日本が高度経済成長とか東京オリンピックとか一億総中流とかの社会としてのビジョンを失いひたすら停滞していた90年代前半だったが、日本は国としてはいまもまだ大きな物語を人々が見出しづらい国のような気がする。
「国のために死ねるか」は、元自衛官の人が書いた本で、いかにも右寄りっぽいタイトルとは裏腹に日本の国としてのあり方に問題提起をしていて面白かった。文末に元自衛官ならでは煩悶が吐き出されている。
“私は現在の日本に不満があるし、不甲斐なさも感じている”
“せっかく、一度しかない人生を捨ててまで守るのなら、守る対象にその価値があってほしいし、自分の納得のいく理念を追求する国家であってほしい” (「国のために死ねるか p246)たしかにオウムのあとテロを起こすようなカルト集団こそ生まれてはいないが、日本に国としての理念らしきものがあるようには見えない。そして「世界史の極意」が言うように排外主義などの“グロテスクな物語”は氾濫している。またそもそも「大きな物語」もはや機能しないという見方もある。
“哲学的に「ポストモダン」を定式化したのは、ジャン・フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年)です。(中略)たしかに、現代人は、こうした真理や規範を、もはや信じているようには見えません”
“それに代わって、リオタールがポストモダンとして提唱したのが、小さな集団の異なる「言語ゲーム」でした。他とは違う「小さな物語」を着想し、多様な方向へ分裂・差別化することが、ポストモダンの流儀となりました。”(今世界の哲学者が考えていること P36)私はリオタールの原書は読んでないが「今世界の〜」を文字通りに読むなら、村上春樹が小説を書き続けるのはある種の「小さな物語」を提示するためなのかもと思う。
以前にも書いたが、この小さな物語とか文脈の提示というのはAIとロボットがひたすら人間の仕事を代替していった後に残る領域の一つかもしれない。
たとえばエコ。エコフレンドリー製品は、購入者が直接的な便益を感じることは普通あまりない。オゾン層破壊は一消費者がエアコンをフロンガス不使用のものに替えたところで目に見える解決にはならないが、地球環境をより持続可能なものにする、という物語に参加することができる。そしてその物語を作っているのはアル・ゴアのような活動家だったり、エコ雑誌の編集者だったり、企業のソーシャルマーケティング担当者だったりするわけで、これはAIに代替してしまうと味気なさすぎるので人間がすることに価値がある。
また、手仕事に再度価値が戻ってくる可能性もある気がする。ハンドメイド製品のマーケットプレイスのひとつ、エッツィは13年度時点での総取引高が14億ドルに達し100万人もの売り手がいるという(「マッキンゼーが予測する未来」)。自分も最近同業のMinneで木製ベンチを買ったのだが、量産品にはない良い意味でのラフな味と、作り手の顔が見えることもあってとても気に入っている。
以前にも似たようなことを書いたが、大量生産の味気ない消費財に飽きた一部の消費者が手仕事のもつ小さな小さな物語に先祖返り的に価値を感じるようになる時代が来つつあるのではないか。エッツィなどの成功の最大の要因は潜在的な無数のスモールビジネスを掘り起こしたことにあるのだろうが、Minneの作り手の作家性を打ち出したTVCM等を見るとこの手仕事の価値の再興も寄与しているように思える。