2012/11/25

旧ユーゴ旅行4

夜明けて、ヘルツェグ・ノヴィ行のバスに飛び乗りました。

距離的に3~4時間で着くと踏んでいましたが、ボスニアの山岳地帯の急峻なることやんごとなく、寝てど暮らせど着きません。結局11時発で日もとっぷり暮れた6時頃に着きました。モンテネグロは安全ということだったのでその点は心配していませんでしたが、宿探しが大変そう。

案の定難航し、疲れてフラフラとカフェに入りました。

「すみませんこの辺に安い宿ないですか」
「宿?ちょっとまってなオーイ(近くのオッサンに話しかける)。ちょっとまってな今彼が調べてくれてるから。キミ何人?」
「日本人です。あ、あとコーヒー一杯」
「遠いな!こんなところに何しに来たんだ?(笑)」
「いや~正直分かりません(笑)」
「良く分からないけど観光ってやつだな? (近くのオッサンに話しかける) うーん。今10人位にメール送ってくれたらしいんだけど、返信ないか、今営業してないって。これぞモンテネグロ人って感じだな。怠け者なんだ (コーヒーコトリ)」

しばし待つ。

「メーン(Man)!そいつについていってみてくれ。すぐそこの教会が5ユーロとかそんなもんでベッドだけ提供してるんだ。ベッドだけね、そんなでいいの?」
「いいですどうもありがとう。あとお会計」

さてワイルドなおっさんについていって教会のベルを鳴らしましたが、誰もいない模様。結局カフェに戻ってきてしまいました。

「メーン!だめだったか。まぁちょっと座ってな。他をあたってやるよ」
「ありがとうございます・・・ (メーン!ってクラスメイトのイタリア人そっくりだな・・)」

モンテネグロは古代ローマやヴェネチア共和国等の支配下にあった時代が長く、距離的にも近くて随所にイタリアの影響を感じます。コーヒーはエスプレッソ。挨拶はチャオ。食事はパスタかピザ。そもそも国名がイタリア語(黒い山の意)。

「メーン!そこのガキどもが知ってる宿に連れて行ってくれるってよ」

そこのガキども、もとい子供たちは12~16歳位の6人組で、皆英語が達者でした。

ガキA「どこから来たん?」
「日本。キミは?」
「XXXだよ。ヘルツェグ・ノヴィじゃない。遊びに来てるんだ。俺の街は何もないし臭いしつまらない。ここもそんなに面白くないけどね」

おぉ、典型的な田舎の若人だ。

ガキB「ガンナム・スタイル知ってる?」
「知ってるけど日本じゃそんなに流行ってないらしいよ(というかアレは韓国だと何度言わせれば・・・)」
「踊れる?」
「こうだろ・・・」 →爆笑

ガキC「XXXXXXXXって言ってみ」
「XXXXXXXX? (ガキども爆笑) どういう意味?」
ガキD「Suck my 〇ickって意味さ(爆笑)」
「いらねーよそんな言葉!(笑) いつ使うんだ?」
ガk「警察に殴られた時だね(笑)」
「いやいやそのタイミングでそれを言ったら逮捕されるだろう」
ガ「いや逮捕はされない。そのかわりガンで撃たれるね(笑)」

陽気なガキども、もとい子供達は私を無事宿に送ってくれ、「ダメだったらうちにとめてやるよ」とまで言ってくれました。誰も彼もとても親切です。宿はシングル15ユーロ。

翌日散策したヘルツェグ・ノヴィの街は牧歌的で開放的な、とても気持ちの良いところでした。そこから世界遺産の古都、コトルまで沿線バスでちょうど1時間。

コトルはわざわざ足を運んだ甲斐のある、とても綺麗で小さな街でした。街自体が美しいのと、フィヨルド風リアス式海岸の、海と山と街のコントラストが素晴らしいです。

宿はまけてもらってシングル15ユーロ。

つづく。

2012/11/23

旧ユーゴ旅行3

<朝もやかかったサラエボの図>


さて市内をうろっと歩いてバスターミナルまで行き、モンテネグロへのバスチケットを探しました。当初は「とりあえず首都」と思っていたのですが、首都の名前が思い出せません。

カウンターで「モンテネグロの首都」というと「ない」とのことで、「どこでもいいからモンテネグロの大きい街」と言ったらファ~ファ~と何か言われ、OKOKといったら「Herceg Novi」と書かれていました。読み方さえ分からないですが、首都でないことだけはたしか。実際のところどこですかそれは。

その後中心部にむかって再び歩いている途中、疲れたのでふらっとカフェに入りました。コーヒーを注文して席を探してうろうろしていると、

「疲れてるね」

と英語で話しかけられました。

「うん、疲れてる」
「はは~(笑) ちょうど俺も疲れてるところだよ。すわりなよ」

彼はセルビア人でした。今はNY在住で、ちょっとした帰省&旅行中とのこと。彼はいかにもニューヨーカーらしく、夫婦でスシにはまっているとのことで、スシとニギリの違いについて教えてあげました。

彼 「ちょっとまって、バスと銀行について誰かに聞かないといけないから・・・(隣の席の地元女性2人組に話しかける)・・・おまたせ、分かった」
私 「ちなみにセルビア語とここの言葉って同じなんでしょ。アクセントで分かったりはするの?」
彼 「微妙なアクセントの違いはあるから、2~3言会話すると分かるよ」

私が気になったのはその先―セルビア人である(ことが分かる)ために敵対的な感情を向けられたりすることはあるのか、といった事でしたが、彼のカジュアルな声のかけ方だけ見ると、とてもそういうわだかまりがあるようには思えません。彼は戦中は恐らく私と同じく子供~思春期といったところだと思われましたが、世代にもよるのでしょうか。気になりましたが、ちょっと話題がセンシティブすぎて聞けませんでした。

その後彼と意気投合し、旧市街で夕食も一緒にしました。

彼 「サラエボの後の予定は?」
私 「多分モンテネグロ?(チケットみせる)」
彼 「あー結構大きな街だよ。ヘルツェグ・ノヴィだね (←ようやく読み方が判明)。そのあとは?」
私 「決めてない」
彼 「君は本当に何も決めずに旅行しているなー (←その通り)。なんで?」
私 「いや・・・タイムラインとかに縛られたくないのだ (キメ顔)(実際は面倒なだけ)」
彼 「それはちょっと分かるよ。ところで良かったらうちの実家の街に来ないか?ベオグラードから1時間位のXXX(聞き取れず)というところなんだけど。12月5日まではいるから。ベオグラードはマジで最高だよ」
私 「へ~。それはいいかもね~」

<旧市街>


その後、夜行バスでベオグラードに向かう彼と分かれ、旧市街を散策しました。水タバコ屋だのなんだのといった中東の香りのする店が多数ならんでいました。

宿は同じところに連泊しました。予算オーバーだから他にうつるというと、あっさりまけてくれました。他に客がいなかったのとオフシーズンのため正直そうなると踏んで話したのですが。

夜はヒーターをつけてもなお寒く、90年代の半ばに、この街で多くの人々が電気もガスも水道さえも使えない壊滅的な状況で2度も冬を越したことが信じられない程。

気力が持ち直してきたので、フランツ・フェルディナンド(この街で殺されたプリンスではなく、イギリスのバンドの方)を聞いて寝ました。彼らはサラエボと一切関係なく、これから女の子を口説きにいくぜ!と歌っていました。

つづく。

旧ユーゴ旅行2

サラエボの感想。

2時過ぎに到着。

バスターミナルの周りはザグレブとかなり様相が異なり、なんというかどんよりしていました。物乞いもウロウロしています。

外務省の治安情報上では「十分注意」なのでそこまで危険ではないですが、結構、他の方のブログを見ていると街のど真ん中で白昼堂々暴行・強盗にあったりとかいう記述がみられるのである程度「安全マージン」をしっかりとった方がよさそうです。

バス停の横に鉄道駅があり、そこの旅行代理店件ツーリストインフォらしきものをのぞくと、早くも店じまい中。が、中の兄ちゃん(とおじさんの中間)と目があって、中に入れてくれました。

「ホステルを探してるんですけど。なるべく安いやつ」
「パンフレットが3つあるよ。あと、うちもホステルやってるんだ。ドミトリーは改装中でやってなくて、シングルが20ユーロ」
「他のは?」
「両方とも15ユーロだね」
「地図とかあります?」
「2つあるんだけど、サラエボはまだちゃんと観光業が整備できてないからね・・・こっちの地図は通りが半分しかのってない。うん、こっちの方がいいかな。ホステルはこことこことここね」
「歩いたらどの位かかります?」
「10分くらい。全部旧市街の周りにあるよ。もしうちのホステルくるなら車で乗せていってあげられるよ。」
「(人良さそうだし自分ところをごり押ししないから好感持てる) うーん。じゃそうします」

なお、地図はないとかなりマズイです。グーグルマップを見ると分かるのですが、サラエボはグーグルマップで何も表示されません。どこの山村かと。

とりあえず宿で落ち着いて、一休みしたら日没。安全に気を配りつつ、旧市街を散策しました。旧市街はかなりトルコっぽい雰囲気で、行く途中コーランも聞こえてきました。ちなみにホステルのご家庭もちょっと覗いたところ明らかにムスリムでした。おそらくボシュニャク人なんでしょう。

宿にキッチンがついていたので、その日はパスタを自炊してすませました。

翌日はサラエボ市内をうろうろ。

この文章だと伝わる気がしませんが(伝える気もあまりない)、私にとって、サラエボはかなり衝撃的というか、強烈な街でした。シリアを初めて訪れた時に感じた時以来の。

まあ、この日のサラエボは濃霧に覆われていて独特の雰囲気があったのと、前日Youtubeでサラエボ包囲に関するドキュメンタリーを見たり、ボスニアの内戦について調べたりしていたのとで多分、変に(過剰に)気持ちが入り込んでいたのかもしれません。

サラエボは完全に小高い丘に囲まれた街で、セルビア軍が容易に包囲できたのも納得できます。濃霧と、丘に囲まれた圧迫感で、少し気が滅入りました。

チトー通り、かつては「スナイパーストリート」と呼ばれた通りには「サラエボのバラ」がありました。砲弾跡を赤い樹脂で塗った「サラエボのバラ」はかなり数が減っているようです。が、砲弾の跡というのは独特で、赤い樹脂がなくても(あるいは剥がれてしまっていても)すぐにそれと分かります。



鉄道駅からまっすぐ南に下ったところ、川沿いのエリアにかつて使われた戦車が展示してあり、ここにも「サラエボのバラ」を見ることができました。


街を歩いていると、とにかく銃で壁が穴だらけになった建物が目につきます。戦後20年弱でここまで復興したと見るべきか、未だ退廃の中にあると見るかは人それぞれでしょう。

出発前、ギリシャ人の友達が、バルカンにいけばそこら中で“Decadence”を見ることができるよ、と言っていました。実際来てみて何となくそのニュアンスが感覚的に分かるような気がします。

少なくとも断言できるのは、この"Decadence"も含めて、この街はとても美しいです。

2012/11/21

旧ユーゴ旅行1

続く、して終わってるエントリーがある中で旅行に出てしまったためそっちに関するエントリーです。

なんとなくバルカン半島地域、とりわけ旧ユーゴに属する地域に興味が出たため、Reading Breakを利用してそっち方面への一人旅に出発。行きが約40ポンド、帰りが約20ポンド。安い!

さて旅行の準備と引越と授業のレポートとゲストの来訪が重なってしまい、ロクな準備もできぬまま出発前日を迎えてしまいました。何よりガイドブックの類がないです。英語版のガイドブックも複数の図書館で探したものの、なし。買うのもばかばかしいし、そもそも大きな本屋でないとなさそう。しょうがないので
・グーグルマップを数枚印刷
・外務省HPで治安情報を確認
だけして旅行準備終了。

宿・移動手段・その他一切予約なし、ガイドブックなし、その他基本的な情報もなしという過去最高に無計画な状態で出発当日を迎えてしまいました。大丈夫なのか。

早朝便で、はじめてとなるガトウィック空港を出発。昼頃、クロアチア・ザグレブに着。寒いです。ロンドンより大分南のはずなのになぜ?どうもザグレブは比較的冷たい風が山の方から流れてくる街だとか。

シャトルバスで市内に到着。近くのインフォで安い宿を教えてもらって直行。清潔・設備よし・朝食コミで一泊85クーナ(1200円位)。安い。スタッフもフレンドリーでとても良かったのでリンクを貼っておきます

House Hostel
http://www.thehousehostel.com/

着くまでクロアチアはユーロでいける国だと思っていました。すみません。

着いた日は昼寝したら既に日が暮れており(とはいえまだ5時前)、夕食だけ食べにでて終わりにしました。

翌日も濃霧の曇天。秋のザグレブはこの天気が多い模様。クロアチア系ドイツ人の元フラットメイト・アンリは「何もないところ」とザグレブを形容していましたが、正直とても魅力的な街だと感じました。こじんまりとしていて街はトラムが走り、閑散としているでもなく、混みすぎることなく。北の旧市街エリアは丸一日、ただ散歩しているだけでも良かったです。

ただ空港から街までの郊外にある古いビルは言い様の無い退廃感にあふれていて、旧ユーゴ時代の遺物だと一目で分かりました。

物価も安い。※1クーナ=14円位
・トラム 15クーナ
・パン各種 3クーナ~5クーナ
・パイ各種 10クーナ
・昼食で食べたレストランのオムレツ 25クーナ
これでもバルカンエリアでは最も物価の高い水準とのこと。

そして何より、美人の多さが異常。英語覚えた瞬間にモデルになれそうな女性がウロウロしています(ここでイギリスの悪口を書こうかと思いましたがやめます。私はイギリス好きです)。

さて日程に限りがあるため次なる街へのバスのチケットを買いました。で、なぜか間違ってベオグラード行を買うつもりがサラエボ行を買ってしまいました。単純に間違えました。宿に帰って気づきました。アホの極み。さてこのチケットが約360クーナ。高い。たかい。Takai!!!! ロンドン―ザグレブ間と変わらないです。

続く。

2012/11/09

走り書き


  • 「モベンバー」というのを初めて知った。口髭(Mo)を伸ばして前立腺がん予防のチャリティーをするというキャンペーン。欧米の職場では広がりをみせているらしい。アンリが伸ばしている。
  • オバマはやっぱり多くの黒人にとっては英雄的存在なのかもしれない。教授が授業中に「オバマが勝ったねぇ~」と話を振ると、黒人クラスメイトがいっせいに「イエー!!!」
  • 人に勧められて「Skins」という、イギリスのジャンクなドラマを見ている。日本でもやってるアメリカのドラマ「ゴシップガール」をもう少し過激かつ下品にしつつ、かつセレブではなくパンピー高校生の日常を描いたドラマといった感じ。余りに品がないので、「若者のリアル」というよりはこんなん一部のChavどもに限った話だろうと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。というのも、昨日あったギリシャ人いわく、彼女は1年程ニューカッスルにいたのだが、一番驚いたのは14~15歳くらいで子供産んでる女の子が山ほどいたということだそう。なお、このドラマを「おしゃれ」と形容している人を見かけたが、アホですか。
  • 最近、H高と実弟という二人のアニオタ(H高はアニオタ会ではまだパダワンって感じでしょうか。実弟は完全なマスタージェダイです)に影響されて見たアニメで、オンラインRPGの世界で「リスクマージン」という言葉があることを知った。要は自分のレベルに対してどれだけリスクをとって攻略するかということで、「十分なリスクマージンをとってるからこのパーティーは安全でうんたらかんたら」というように用いる。これって結構、海外旅行、それも僻地とか治安の微妙なところにいく時も同じだなと思った。リスクマージンをちゃんととれば致命傷は負わないけど、その分旅行で得られる(かもしれない)経験値の幅は狭まる。知らない人についていったりとか。

2012/11/08

ジャパン・パッシング?

“ジャパン・パッシング”という言葉の印象が強すぎて日本企業の動向なんて全く眼中にないかと思いきや、意外にBBCでもそこそこ頻繁に日本企業の名前を目にします。

この一週間でも、明暗分かれたために報道のトーンは真逆なものの、パナソニックとトヨタに関するニュースが取り上げられました。

もちろん日本企業の名前がBBC等海外の報道機関に取り上げられる機会は減少傾向にはあるのでしょうが、少なくとも一定の存在感をキープしているのは間違いないように感じます。学校の授業で出てくる企業名にしても、1番多いのがイギリス、2番目がアメリカ、3番目はやはり日本なのです。

別の機会に書ければと思うのですが、日本企業が生んできた製品群と、“典型的日本人イメージ”の組み合わせによって培われたジャパンクオリティの神話は今のところはまだ根強いようです(多少曖昧模糊としたイメージという感じはあるものの)。

最近はそれに加えて、特にヨーロッパ(+アメリカ都市部?)ではいわゆる“クールジャパン”的なイメージが成熟しつつあるような印象を受けるのです。これも別途書きたいですが、これはマンガ・アニメ等のポップカルチャーに限定した話ではなく、あらゆる「日本関連」をクール、と捉える人達が(特に都市部を中心として)増えているように思います。

感覚としては「ありがちな欧米製品/サービスではなく、あえて日本の製品/サービスを選ぶのが“テイスト・違いの分かる”感じでカッコいい、といったところでしょうか。

そんなわけで、
・(政府が)正しい通商政策を採る
・クオリティと需要を正確に結び付けられるようなマーケティングをする
・サービス/ホスピタリティ分野の潜在的な需要にこたえる
・製造業とサービス業の抱き合わせを強化する
・高付加価値分野に注力する
などなど、やりよう次第で日本企業が巻き返す余地は十分あるなというのがこの半年の感想です。

2012/11/07

ロンドンの交通の話①

書こうと思い続けて半年たってしまった、ロンドンの交通に関する忘備録とささやかな考察。


ロンドンの公共交通システムは、ほとんどがロンドン交通局、通称TFL(Transportation For London)の管理下にあり、円と横棒を組み合わせたロゴで各種表示が統一されています。

具体的にTFLに含まれるものとしては以下のような感じ。
・地下鉄(Tube)
・地上線(Overground)
・DLR(高架メインの無人鉄道、ゆりかもめと同じシステムで動いている)
・バス
・レンタサイクル
・テムズ川の移動船

このうち、レンタサイクル以外はオイスターカードなるスイカとかパスモとかイコカとかと同じようなプリペイド方式のカードで乗れ、かなり割引額で乗れます。

東京などと違うのは、電車3つの料金体系。ロンドンは東京の都心3区のような最中心部がゾーン1、それをバームクーヘン状にゾーン2、ゾーン3・・・という感じで取り囲んでいます。ゾーンが何番まであるのかは知りませんが、少なくとも地下鉄路線図でみる限り9まではある模様。ただし遠い遠いと言われるヒースロー空港でもゾーン6なので、私は普段7以上のゾーンにいくことはありません。ほぼゾーン2の内側で生活しています。

私の家はゾーン2ですが、金融街のバンクまで電車1本で15分位なので、日本で言うと日本橋から15分位の、森下とか清澄白川位の感じでしょうか。何故今森下が出てきたのかは私も知りません。ゾーン4位まではちょくちょく郊外型の、田園調布的な高級住宅地なんかもあって、まぁこのへんまではロンドンという感じです。

さて交通の話に戻すと、電車網はゾーン何番からゾーン何番に移動するかで一律の料金を払うことになります。

ゾーン2からゾーン1に地下鉄で出る場合、2012年現在、オイスターカードを使ってもピーク時2.9ポンド、オフピークで2.5ポンドかかります。日本円で300~400円弱といったところ。超円高の今でさえこの値段なので、数年前のレートでなんて計算もしたくない。ゾーン1内の移動は2ポンドですが、1日に3回乗ると6ポンド、800円弱といったところで、法外な値段設定に怒りさえ沸いてきます。

バスは若干安いですがそれでも1.35ポンド、200円近いのでやはり日本より高いです。

そんなこんなの事情もあってか、通勤通学に自転車を使う人が物凄く多いです。日本ではどちらかというと健康志向の高まりからの自転車通勤選択者が多い印象がありますが、こちらはそれ以上に経済的な理由なんじゃないかと思われます。

つづく

2012/11/06

引越②

引越に関する備忘録の続き。
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■そもそも引っ越すことにした理由は、どっぷり英語環境に身をおこうと決めたからである。今のフラットはたまたま元会社の先輩が紹介してくれ、たまたま大学に通うのに都合の良い場所だったから入った。当初は適当なところで引き揚げようと思っていたが、安い割に部屋も立地も良く、何より部屋がとても暖かいのが冬の長いこの国ではありがたく、思ったより長居してしまった。唯一の問題は、フラットメイト全員が日本語を話せるという点。

■とはいえ、留学開始当初はこの環境で良かったとは思う。何せ我がキャンパスは日本人はおろか東洋人さえ私一人という恐るべき学び舎である。入学から今に至るまで私はマイノリティー中のマイノリティー。英語での会話もままならぬなか、この尋常ならざるアウェー感はそれなりに疲れるものだった(他の国の連中は、少なくとも「アフリカ系」「ヨーロッパ系」「中東系」といったカテゴリーで最低2~3人はくくることができた)。なので、家に帰って日本語で不自由なくしゃべることができるのはかなりストレス発散になったのだ。

■しかし、さすがに半年以上たって大学生活にもなれ、勉強もヤマを越えたことで、もう一回アウェーに出てみようという気力がわいてきた。アウェーの環境に身をおくことが心身の修行になるのは古今東西不変の真理である。大変だったが、その分色々なものを伸ばせた気がする。

■加えて現時点までの英語力の伸びに物足りなさを感じていることも大きかった。一方で10月以降授業が減ったこともあって集中的に勉強を続ける中で少しずつ成果を感じ始めていて、これはちょっと気合い入れてやればそれなりのレベルにいけると思った。ワーホリや交換留学で来ている人達の中にはあまり英語をモノにできないまま帰る人も少なからずいて、それでは困ると思ったのだ。

■で、前回の終わりに戻ってなぜイーストからウェストセントラルに移ることにしたかというと、よりアウェー度の強い場所に行こうと思ったのと、たまたまここ1ヶ月セントラルに出掛けることが多く、あちこち歩く中で興味が沸いたから。今までは「ロンドンらしからぬロンドンを通してロンドンを知る」というちょっと逆説的なアプローチだったので、一般的なロンドンらしいロンドンも知れたら面白いかなと思った。結局パディントンになったのはたまたまだが、結構今住んでる町とのコントラストは大きい。
 立地:東より⇔西より
 人:移民ばかり⇔アラブ系等移民も少なからずいるが昔からの地元民も多い
 歴史:新興エリア⇔古い伝統のあるエリア
こういう対比を通して、ロンドンをより立体的に理解できればすごくいいと思う。ひとつの街の理解を深めるというのは私にとっては最高に面白い本とか映画とかより面白い。ロンドンのような大きな街ならこれはもう鼻血がでるほど面白い。社会人になって、たまたまガイドブックで東京が思っていた以上に色んな顔を持つことを知り、興奮してあちこち歩き回ったのを思い出す。

■セントラルよりで安いフラットならなんでもよかったのだが、どうせな極力フラットメイトと会話できる環境の方がいいと思った。フラットによっては住民の会話があまりなかったりする。幸い私は汚いのは割合平気だし、プライバシーもあまり気にならない。そしたらいっそルームシェアでいい気がしてきた。ルームシェアなら嫌でも顔を合わせるから、会話せざるをえない。あとはシェアする相手がナイスガイかどうかだけ。バックパック旅行でドミトリーも慣れているから、スムーズに入れる気がした。

■で、たまたま家探しのウェブサイトで出ていた広告に目がとまり、見に行ったところ住人の感じがよかったため、即決定。結局ビューイング3件目で決めた。コロンビア人とスロバキア人という、日本じゃなかなか会えない人達な上、二人ともとても感じがいい。まだこれから住んでみないと分からないが、良い悪い含めて貴重な経験ができるんじゃないかと期待している。今のフラットメイトのドイツ人には全力で反対されたけれども、俺がいいならいいのだ、ということで。

2012/11/02

引越①

現在住むドックランズ北東イーストインディア(E14)からパディントン(W11)に引っ越すことにしました。

引っ越しに至った経緯に関する備忘録。

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■同じロンドン内でも、引越というのは色々なデメリットがある。

①経済面。入居の際のデポジット(返金されないことも多い)の他、ぴったり現住居の退去日翌日から入居とはなりにくいため、両者が重なる期間が無駄になる。

②生活の慣れ。一つの区域に根を下ろして暮らすと、意外と暗黙知のような生活の知識が貯まっていく。例えば:
・スーパーの場所
・スーパーの陳列スペースのどこに何があるか
・主要バス路線のナンバー
・駅・バス停・自転車ターミナルの場所
・(ロンドン特有)地下鉄各駅がどのゾーンに属するか
・自転車で走行しやすい裏道
・図書館の場所・規模・営業時間(これは学生ならではの重要点)
・A駅からB駅までの所要時間
・ちょっといい感じのカフェの場所
etc.
引越は、これをほぼリセットしてしまう。

■デメリットとまではいかないが、同じところに続けて住んでいることで得られるものもある。自分の場合は地元のバングラディッシュ街の商店に通い続けるうちに、食品店のおじさんはツケ払いを許してくれるし会うたび世間話をするようになった。ファーストフードのフライドチキン屋のおじさんとは会うたび握手するし、カナリーワーフ図書館脇のスタバの店員には名前を憶えられている。だから何だと言われると何だかわからないが、そういう色々が今の所での生活を居心地良くしているは確かだ。アウェーだったこの街が9か月でホームになった感じがある。

■イーストエンドはロンドンでもとりわけ移民が多いため、外国人が入りやすいところだと思う。雑然としていてロンドンらしからぬ光景に出くわすことも多い。例えば今住んでいるタワーハムレッツ地区の西、シャドウェル近辺のバス通りは一見すると南アジアのような何とも言い難い不思議な景観が見られる。逆にそういうのが嫌で住まない人も多い。私のフラットの部屋が過去空いた時も、ビューイングに来た人の断り文句は大抵「部屋はいいんだけど場所が・・・」という感じだった。

※ついでにいうと、このあたりは中国人は結構多いが、日本人はとても少ない場所。日本人は西のアクトン周辺と、北の方、セントジョーンズウッドとかハムステッド周辺とかに住んでいるらしい。

■ただ、この一般的イメージでのロンドンっぽくなさ(あるいは先進国らしくなさ)がこのあたりの魅力でもある。そしてその魅力に気づくと、逆にこれこそロンドンなんじゃないかという気さえしてくる。実際このタワーハムレッツ地区やドックランズはメルティングポット・ロンドンを象徴していると思う。

■ついでに言えば、イーストエンドの一部、ショーディッチやブリックレーン界隈は若者カルチャーやアート、ファッションの先端を行く場所だったりもするわけで、そういう場所を擁するイーストエンドという場所が住んでいて面白くないわけがないのだ。

■そんなわけで当初はイーストエンド界隈で家探しをしていたのだが、結局は真逆のウェストエンドに越すことが決まった。つまり、超大袈裟に書くと、住み続けることで得た暗黙知を捨て、居心地の良さを捨て、イーストの面白さと距離を置くことにしたということになる。なんでそういう結論に至ったかという話だが、長くなったのでつづく。



地味

今学期は授業が減るため毎週がゴールデンウィークだわと余裕かましていましたが、実際のところそんな甘いわけもなく。

卒論が合計で50ページ程必要なのに対して現在の進捗はわずか10ページ弱。単語数で言うと3000語強。他のモジュールもM&Aとか全く門外漢のトピックがあったりして既に苦戦気味。更にいい加減そろそろ就活もしなければということで(私以外のクラスメイトはとっくにせっせと就活に励んでいる)、そんな悠長に観光だなんだと言ってられないかもしれません。

そんなわけで本日も朝から図書館に籠ってPCとにらめっこしています。以前他大のマスターに通う日本人学生も言っていましたが、マスターズディグリーとか海外での学生生活というと何となく華やかなイメージをもたれるものの、実際は部屋にこもって文献を漁るという地味で暗い生活になりがちです。ここはロンドンなのでまだ生活に彩がありますが、田舎でこういう生活をやると良くも悪くも本当に地味な生活になりそう。